ド・グレーフの言葉から不祥事教員を考える(解説編)
- ぬっぺふ
- 2月6日
- 読了時間: 22分

おひさしぶりです。元熱血教員で不祥事教員、現社会福祉士兼ピアサポーターのぬっぺふです。
更新が大分滞っておりますが、地道に活動は続けておりました。
はてさて、今日も今日とて順調に不祥事教員は増え。テレビを見れば戦乱は止まず。SNSを見れば自身を正義と信じて止まない人々によるヘイトまがいのバッシングが横行中。なんとも嫌な時代になったものです。
今回はそんな時代を生きていくために大切な視点を、過去の偉大なる精神科医であり犯罪心理学者「エティエンヌ・ド・グレーフ」の言葉から学んでいきたいと思います。
では、行ってみましょう!

1.エティエンヌ・ド・グレーフとは
さて、本ブログの読者の方でグレーフの名を聞いたことがある方は少ないのではないかと思います。かく言う私も、たまたま彼について書かれた本を読むまでその名を全く知りませんでした。
グレーフは1898年生まれの精神科医であり犯罪心理学者、ついでに物語作家でもあります。肩書だけを聞くと「多才な人物だったのね」と思うかもしれませんが、彼の人生を見る限りは器用というよりは不器用。幼少期に感じたある疑問を追求し、その知見を広めるために生きたような方と感じています。
さて、では彼が幼少期に感じた疑問とは何だったのか。
…それは「犯罪者と普通の人間はそんなに違うものなのだろうか」ということでした。
彼は小学生の頃、学校の入口である青年に出会いました。その青年は本当に普通で、グレーフ自身も特に意に介さなかったようです。ところが、実は彼は殺人犯。同日既に老婆を殺したあとだったということが発覚したからさあ大変。
グレーフ少年にとってそれまで殺人犯とは明らかに異質な、おかしな怪物的存在でした。ところがこの件をきっかけに、そうした前提がくずれてしまう。それほどまでに、青年は「普通」だったのです。
……この経験が尾を引き、グレーフは精神科医としての仕事を選びます。さて、彼が仕事盛りを迎えていた1930年代。ヨーロッパには暗い影がのしかかりだしました。すなわち、ヒトラーに代表されるファシズムの流行、そしてそれに続く第二次世界大戦です。グレーフはこの戦争の中で、普通と呼ばれる人々が犯罪的性質に身を委ねていく様子をまざまざと見せつけられることになりました。

殺人犯の青年との邂逅。精神科医としての職務の中で感じる普通と異常のあやふやな境目。そして戦争。これらの経験からグレーフはかつて自身が抱いた「犯罪者と普通の人間はそんなに違うものなのだろうか」という問に対する答えを見つけていきます。
グレーフはそもそも人は普通と異常と単純に分けられるものではないのではないか、と訴えます。「人間は本人が思う異常に、複雑で危うい存在」なのだと。それなのに専門家達は「人間を図式に単純化してしまう」傾向がある、と。
実はそれまでにも犯罪について考える「犯罪学」は存在していました。しかし、それらは身体的特徴や気質で人を分類したり、異常によるものとして説明してしまうものが多かったのです
※教員であれば採用試験でクレッチマーの体型による分類等を学んだのではないでしょうか?
同時代のこうした考え方対しグレーフは「ラベルをはることで満足するような学問はあてにならない」と述べました。
グレーフの考えは、やらかしてしまった方と直接関わる人々にとっては決して目新しい感覚ではありません。しかし、こうした目線にたった専門家の著書は思ったより少ないのです。そうした意味で、専門家であり当事者支援も行っていたグレーフの言葉には、机上のデータや妄想の中の当事者を膨らませたような本とは一線を画すものであり、今なお新鮮に響くものがあると感じます。
2.「社会型」の人々への警鐘
グレーフに言わせれば、いわゆる善良な人間というのは単に「社会型」であるだけだといいます。彼らは感情のバランスがとれており、たまたま誘惑に屈しにくいだけである、と。
…これだけ聞くと「おいおいグレーフさんよ、ラベルを貼ってるじゃねえか」と思うかもしれませんが、グレーフはこうした「型」は状況によっていくらでも可変すると訴えます。
例えば先述した「社会型」の人間も、状況によっては「原始型(自己のコントロールを発達しきれず5歳児の脳で20歳になったような状態)」や「偽補償型(わかりやすく問題は起こさないが、冷笑や軽蔑など別の方法でやりかえすような人々)」に変化し、他者を攻撃しうるというのです。
※職場でねちねち嫌味を言ってくるタイプの人などは、社会型とは呼べないのですね
彼の考えでは普通の人なんて存在しない。それでも大衆は自分と犯罪者を分けたがる。その上で安全なサイドから「何故あんなことをしたのか?」と犯罪者を批判するもの。そうした人々をグレーフは結婚を後悔する人にたとえて論じます。
「結婚を後悔する人は沢山いる。だがその相手を選んだのは本人も気付いていないその時のコンプレックスやフェティシズムに動かされてのことで、努力でどうにかなったものではない」
と。噛み砕いて翻訳するならこんな感じ。
『文句いうくらいなら結婚しなきゃよかったじゃんよ。でも無理だったんだろ?それだけ相手に燃えちまったのか、それとも外堀から埋められたかはしらんけど――結婚せざるを得ない何かがあったんだろ?でも、今思い返すと後悔ばっかり湧いてくるんだろ?』
『犯罪者だって同じだよ。結果だけ見てなんでそんなことしたんだ!と言うけれど、お前が後悔する結婚に突き進んだように、そいつらなりの止められない理由があったんだよ。原理は一緒だよ』
こうしたグレーフの目線は「犯罪者とは何より人間である」の一言に集約されていると思います。故に彼は犯罪者がいかにそこに至ったのかを調べ出すのです。当時グレーフはある刑務所で精神科医として働いていました。自身でこまかなフォーマットを作り、それによって刑務所内の囚人からデータを集め、その結果、彼は確信します。
「ある一時期の人格がどれほど危険であってもその状態は変化する」
「どれほど悪い状態も、いきなりたどり着くのではなく行ったり戻ったりしながらそこへ着く」
…彼の言葉はどんなに危険な犯罪者であってもその人格から脱することが可能であること、そして犯罪に至る過程のプロセスがわかれば犯罪にたどり着く前に防ぐことができるかもしれないということを表していたのです。彼はその糸口を当時は正義とさえ見られることのあった犯罪、「クライムオブパッション」を行ってしまった人々を探ることで見出そうとしました。
3.クライムオブパッションの分析
クライム・オブ・パッションは、かつて日本では「痴情のもつれ」とも呼ばれたもので、恋愛感情がこじれた結果殺人事件に発展してしまうタイプの犯罪の総称です。新しく好きな人ができた…相手が浮気していた…お金も時間も捧げたのに相手にされなかった…そうした結果本来愛していたはずの相手が憎くてたまらなくなり、復讐をはかる。
現代でもよく起こるこれらの現象は、グレーフの時代ではむしろ「男の中の男の行動」と礼賛されたり刑罰が甘くなることさえあったそうです。
一つの恋愛が終わるとき、相手への熱意は急速に失われます(=相手の価値は減少)。
一方、今まで気にしてこなかったものの価値は再評価されはじめます。例えば自分のための時間。相手のための使ったお金。ときには相手の欠点…。
このとき、心の中にはある思いが芽生えやすくなります。つまり「相手から取られたものを取り返さなくてはならない」という感覚です。実際は喜んで与えていたとしても、相手の価値が下がることでそれらの投資は無駄なものに変わってしまう。「投資して損した!どうしてくれる!」と相手を攻める。こうした心境の変化の中で、次第に相手は罰を与えるべき存在に「単純化」されていく。
※こうしたある特定のものから離れていく際に起きる心境の変化を「リダクションプロセス」と呼びます。熱血教員が不祥事教員に変わりやすいのは、このリダクションプロセスに陥った結果「損を取り返したい、いい目をみたい、見るべきだ」と心境が変化しやすいというのも一因なのではないかと感じています。
学校現場ではロマンス詐欺のように「やりがい」や「魅力」で教員から様々なものを奪って人員不足を誤魔化してしまっている。そりゃリダクションプロセスも起きるわなというのがぬっぺふの見解です。
さて、こうした心境の変化が起きた際その攻撃はどこへ向かうのか。
グレーフの調査によれば、最初に攻撃は「自分自身」に向かうようなのです。驚くべきことにクライムオブパッションの経験者の内35%は自殺まで企図していました。最初は、自傷や自虐から始まった感情の奔流は、15日以上続く中で次第に「他殺願望」へ変質していきます。
こうして大きな事件が起きてしまい、周囲は「なぜそんなことを!」と衝撃を受けるわけです。でも、実際は心境の変化も殺意の結晶化も行動化も水面下で見えぬ内に進行していくものです。この心境の変化をグレーフは車を買う時にたとえています。
きっかけは些細なこと。そこから知らず知らずの内に車についての情報に触れ、時には調べ、最終的に決断に至る。周囲からはその過程は目に映りにくいので「ずいぶん思い切ったことをしたなあ」と結果だけを見て感じてしまったりしますが、実際は少しずつプロセスを経て、「車を買う」という思いが結晶化していくのです。
4.いかにして殺人に至るか

グレーフはクライムオブパッションに至る過程を3つの段階にわけて説明しています。
第一段階
頭の中にその悪い考えがよぎるが、まだ大したことではないと思えている段階。
この思考が結晶化する前に何らかのガス抜きがあればまだまだ立ち止まれることもある。
第二段階
第二段階では、心の中は戦いになる。表面に影響が出ることも(例 不眠や食欲減衰)あり、周囲にも苦しみが見える。なお、本人の自我にこの戦いを指揮することはできない。
※この自身には指揮ができないという点が秀逸…!
決心には力がいるため、そうせざるを得ないような事態が起こるのをひそかに望みだす。殺人ならば「あいつを殺すのは自分かもしれない」と感じだす。
こうした心の中の戦いの中、「相手の欠点や過ちが誇張され、人格が単純化されていく」。
※実際の人間は複雑です。今憎んでいる相手にもかつて自分が惚れた要素があり、良い点も沢山あるはずなのです。ですが、そうした要素は切り捨てられ、自分の都合のいい形に相手がデフォルメされてしまうのです。こうして極端な悪者に相手を仕立て上げることによって、人は超えられなかった柵を飛び越えやすくなっていきます。
まだ、この段階でも引き返すことはできる。周囲にも変化は気付きやすい時期。
いつもより大胆になったり、向こう見ずなことをしたりする。一見論理的には破綻していないし仕事上では評価されることすらあるが、これはそれまでの自分から解放されつつある表れ。
上記の変化は特に言語にはよく現れる。以前ならしなかったような人を貶める発言をしたり。
「犯罪へ至る心理プロセスは犯そうとする行為のレベルまで無意識に人格を下げていくプロセスでもある」
※グレーフは特に言語は意識レベルを表す指標であるとともに、時には次の段階への仲介をなすものと警戒を訴えています。言葉は大切。たしかに、言葉遣いが丁寧(一人でいる時や生徒に接するときも)な先生は安定感があった気はします。
第三段階(=危機)
すでにきっかけを待っている状態。心の内での戦いに疲れ、最早内的には死を迎えている。
精神は不安定&過感受性(ささいなことも決定的なことと認識してしまう状況。酒を飲んでいる、普段から強がっている、元から感受性が高い…といった人は特に危険性がます)。結果、日常の中でもどんどん不満をためていき、やがて過去の穏やかな自分を押しのけて殺人も厭わない新しい自分が表に出るようになっていく。
こうした危機の際、人は他のことに無関心&無気力になっていく(自殺願望の表れ)。そしてその様子は、周囲から心配されるよりも非難されたり解雇のきっかけとして捉えられてしまう。
仕事や人間関係といった社会的抑圧がなくなると、それまで抑制されていた感情が解き放たれやすくなるもの。結果、ひょんなことをきっかけに感情は爆発してしまう。
…恐ろしいことに、こうしたプロセスにある人は「自分が流されている自覚がない」といいます。自分も周りの人々も、「自分が自分を動かしている」と思っているため、医者に繋がることもありません。やっと精神科に行く頃にはもうできる努力は全て尽くしているのですが、ドクターはこれまで本人がやってきたような努力を勧めたり、本人が向き合うのを避けていたトラウマをほじったりとよい支えになってくれないことも多いようです。
※私自身もそうでしたが、自身が壊れかけているという不安はあれど実感がないため診察を受けても軽く受け止められがちです。医師の見識不足というよりも、自分を普通に見せなくてはという正常性バイアスのようなものが自身に働いてしまうため…とは感じています。
こうしたクライムオブパッションが実行に移されるまでの経過は、「不祥事教員がどう変化していくか」にもよく似ています。
※最初は教育や生徒への熱意が彼を支え、滅私奉公を可能にします。自腹も切れるし、徹夜もする。学校外との繋がりも断ち切れます。ところがどこかでその熱意が揺らぐ時がくる。すると、今まで熱意の対象であった学校や生徒が自身を攻撃し様々なものを奪っていったように感じ始めてしまい、「不遇感」に襲われるようになる。次第に生徒は1個人ではなく「生徒」と単純化され、攻撃や搾取されても仕方ない存在に貶められていく。本人が以前であれば口にしなかった怒声で生徒を恫喝し、自身の損を埋め合わせるように欲望充足のために学校を利用しだす…
クライムオブパッションに至る3つの段階は、一部の不祥事にもあてはまる、普遍的な何かを示してくれているように感じます。
5.予防のために
グレーフは「ある人が正常か異常かを判断するのはその人が性格的に100%男性か100%女性化を答えるくらい難しい」と訴え、「テストで判明した状態はあくまで検査時のものにすぎない」と断言します。ゆえに、正常か異常かの二択で判断する精神鑑定のあり方については懐疑的でした。
人間は複雑なのです。どんな人間にも異常な面があり、正常な面がある。グレーフの人間理解は徹底的に単純化を避けます。人間の行動とは、知性、感情、本能など数え切れない要素の組み合わせの結果下されているもの。そのロジックは複雑で無意識内をへることもあるために本人ですら自分の行動の理由を説明できないことはありますが、本来非常に合理的に起きてくるものであると彼は捉えます。
グレーフは「人が咎められるべき行いをするのも、それが『私』にとって最善と思われるからだ」と断じます。
つまり、周りからいくらおかしな生活でも、その人にとってはそれが最もバランスが取れている状態であり、なんなら辛いことや苦しいことから逃れるための策なのだ、ということです。
ゆえに、グレーフはいいます。「なぜその行いを最善と思ったかを考えるべきだ」と。なぜそんなことをしたのか、では見えないものがあるのです。なぜ本人にとってそれが最善策となってしまったのか。その目線が真の予防や再発防止、回復に向かうために必要なのです。そして、その考えを突き詰めると予防のためには社会のあり方そのものを見直す必要がある…という結論が導き出されたのでした。
例えば、グレーフの務めていたルーヴァン刑務所では、受刑者の35%の家庭は周囲から孤立気味であり、25%は関心すら持たれていなかったことが明らかになりました。受刑者も子供時代は意欲的だったはず。しかしまわりから援助や理解が受けられず、成長の中で次第に望みを無くしていったのです。
親との関係も重要な因子でした。
過保護な親の元では、子は欲求実現を待たされることがあまり起きません。結果、今その瞬間の欲求充足にとらわれがちになります。
一方無関心ではどうか。無関心な親のもとで育てられた子供は、世界に対しての基本的な安心感がなくやはり今目の前のことしか捉えることができません。故に、不快な思いをすると「世の中は不当だ」と結論付けてしまう極端な世界観になりがちです。
…彼らには「日」の概念はあっても、「月」や「年」の感覚は弱いです。長く続く幸せと、今のみ与えられる大きな快感を並べられると迷わず後者をとるのはそうした世界観が関係してきます。
そうして反社会的勢力と呼ばれる世界に足を踏み入れればどうなるか。彼らは成人して3〜5年で軽犯罪により逮捕か服役となり、自分が社会の外にいるのだということを実感させられます。結果、彼らは希望を失っていく。
他者を大切にするという感覚は、自分を大切にするという感覚なく存在しえません。自分の人生を捧げて他者を救う聖人もいます。しかし彼らはつまるところ他者を救うことに生きがいを感じる自分の価値観を大切にしているのであって、経済的・肉体的には損をしているようでも精神的には得をしているのです。では希望を失い、自分を大切に感じられなくなった人間はどうなるか。
――結果は簡単です。自分だけではなく他人にも無関心になっていくのです。いわば単純化の極地。他者のモブ化。こうして彼らは他者を傷つけることに「今生きるため」に適応していきます。異常とされる彼らの生き方も、彼らの目線にたてば異常どころかこれ以上の解の存在しない立派な生存戦略なのです。
また、社会の精神性がどうあるかということも犯罪の予防に影響するとグレーフはいいます。
たとえばクライムオブパッションの加害者は、グレーフの分析では「子供っぽくて心のバランスがとれておらず、劣等感を抱いている哀れな人間」なのです。しかし、社会が『男の中の男』ともてはやすことで自身の問題を認識できず、釈放後再発させたり周囲にも誤った捉え方が感染していく面があるのです。
※パワハラ教員への評価には似たものがあると感じるのですが、皆様はどう思いますか。
クライムオブパッションに限る話ではありませんが、「復讐しよう、罰を与えよう」という正義は結局犯罪者と同じ精神性に立脚しています。自分を攻撃するものには攻撃しかえすのが大切だ…今まで自分を苦しめてきた勢力に今こそ鉄槌を…言い方は様々ですが、現在ネット上を漂う論調は皆「復讐と罰」に支配されているように感じます。これはつまるところクライムオブパッションが礼賛された100年前と何も変わっていないのではないでしょうか。他者を攻撃できる人間がなぜか人気を集めていく現代社会の不思議の影には、100年前から変わらない「犯罪者と同じ精神性」を備えた社会の存在があるのかもしれません。
グレーフ曰く、犯罪に至るほど追い詰められた人々は「誰にも理解されず一人ぼっちだ」と感じています。一方で「誰かに理解してほしい」という強い思いも密かに抱えているというのです。
――「復讐と罰を是とする社会」では、犯罪は起きやすく、しかし犯罪を起こすまでに追い詰められた人々が理解され道を改めるチャンスは得にくいようです。それは健全な社会のあり方とはやはり言えないように感じます。
6.防衛本能は人を突き動かす
グレーフは第二次世界大戦を経験した世代です。間近でナチスドイツのホロコーストも目撃しています。そうした彼の目に、人々のもつ正義は本物の正義ではなく、防衛本能から生み出される攻撃性のようなものと映っていました。

例えば、故意づけと呼ばれる傾向について。人は相手が攻撃的だと思われるとき、そこに故意を見出しがちです。例えば幼い子供が泣きわめき貴方が買ってきたおもちゃを放り投げたとします。その行動には特に意図はありません。ただ自分が今不快であり、それを表現するためにたまたまその行動をとったにすぎない。しかし、大人の中にはそこに故意…この場合は自分に向けた「敵意」を見出してしまうことがあります。
「自分がわざわざ買ってきてあげたおもちゃをあてつけのように投げやがって!」
「そんなに私を傷つけたいの?」
「ああ、本当にこの子は意地が悪い!!」
といったように。ただの生理現象から来るパニックが、この目線では罪となってしまう。
罪には罰が必要です。少なくとも罪には罰があってしかるべきと考える方は多い。結果、子の行動に敵意という故意を見出した親は、正義にのっとり「罰」を与えるようになります。
特に成長しきれていない人や周囲に対して過敏になっている人は、まわりに不当性や異常を認めやすく行動を起こさねばと感じてしまうと言われています。そして彼らは正義感に基づいて攻撃的な振る舞いにでるわけです。
さて、こうした故意づけやそれに基づく反撃は、つまるところ「相手を単純化して捉える」からこそ可能な芸当です。相手を一人の個として尊重するのであれば相手の事情も聞かず一方的に正義を振りかざすことはできません。それができるのは無意識に相手を「問題ある存在」「自身よりも劣る存在」として軽視しているからこそです。
彼らの行き着く先は「誰に対しても、何に対しても暴いてばらすべき悪意を探すようになる」という悲しい状態です。人が話をしていれば自分の悪口を言っていると思うようになり、自分の考えと違う意見を聞けば「非難された」と感じるようになっていく。
まとめましょう。
①未成長や過敏 → ②故意づけの暴走 → ③世界の敵化 → ④正当防衛による応戦 → ②へ戻る
…どうでしょうか。私はかつてまさにこうした状況に陥っていたことがありました。
グレーフは、「防衛本能に基づいた『不正への復讐としての正義』は結局のところ犯罪と変わらない」と断じます。例えば、「犯罪者はみな厳しく罰せられるべき!」という思想はまさにこの最たる例です。
グレーフは、こうした社会の態度が周囲に与える大きな問題を挙げています。
「罪の暗示は恐怖を発動させ、大人を子供の状態に戻してしまう。これでは愛を作り出すことはできない」と。
…人が大人であるためには自由と責任の両方を併せ持つことが大切です。しかし、罪の恐怖による行動の統制は、自由も責任も奪ってしまいます。
厳格な親に育てられた人が精神的に子供のまま大人になってしまうように、今の社会は未発達な大人を増やす土台ができてしまっているのではないか。グレーフの考えからはそんな現状分析も導き出されます。では一体どうしたらこの状況を変えていけるのでしょうか。
7.一人一人のドラマに寄り添う

グレーフの言葉に従えば、クライムオブパッションについても故意づけについても「他者の単純化」が問題の根底に横たわっているようです。つまり、他者を単純化せず一人の人間として捉えていく姿勢が犯罪者を減らす社会には求められるといえます。
グレーフは「一人ひとりの内なるドラマを無視すると他者は匿名化(=単純化)されてしまう」と述べています。
しかし、一方でグレーフはこうも言っています。「一人ひとりに思いをはせることは、仲良くする、哀れみを持つ、ではない」とも。
本人がいかにその人生に至ったかに思いははせる。しかしだからといって彼らが負うべき責任は彼ら自身に返し、あくまで対等な他者として横にいる。グレーフが見出したバランス感覚は、福祉現場などではよく掲げられる感覚なのかもしれません。ですが、彼はそれを犯罪者という「罪を負うべきとされる人々」に対しても適用し理論的にその理由を説いた。しかも自身の思い込みや偏見に左右されずデータと臨床経験を元にして。こうした人物は2025年の現在においても稀有です。そしてそれゆえに彼の言葉は普遍性を帯びているように思えます。
自分を守ろうとばかりしていると、他者は単純化される。
一方で、他者に服従ばかりしては自分も状況も見失う。
…前者ばかりを使ってきた人々は、他者への共感を意識的に行い、バランスを取り戻さないといけないとグレーフはときます。特に他殺までいった人はなおさら。そして重要な示唆として「彼らを分析する学者も共感の目線を持たなくてはならない」と結ぶ。
グレーフが見てきた限り、『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンのような犯罪者は実際には存在しませんでした。そして、動機なく犯罪を行う者も100分の1しかいませんでした。
ほぼ全ての犯罪者は、みなそこに至る動機や葛藤を抱えていたのです。ただ、そうした動機や葛藤の多くは非言語化される無意識にも横たわっているため、彼らはその過程をうまく表現できない(特に事件後すぐでは)。
――勇気を出して言葉にしても、社会による「罪には罰を」の正義によって彼らの主張は「単純化」され、ただの「一犯罪者」として埋没させられていく。結果、我々は「なぜ犯罪に至るのか。なぜそれを最善と考えてしまったのか」という犯罪防止に繋がる最も重要な目線を失い、似非正義によるレッテル張りに終始してしまっていた…ということなのでしょう。
8.グレーフの思い描く未来
犯罪者にレッテルを張り、異質な他者と単純化してしまうことは簡単です。安心すらするでしょう。だって犯罪者と自分は異なる種類の人間なのですから!…ですが、グレーフが述べていたように、全ての人間の中に正常と異常が入り混じっています。そして、人はその時の環境によっていくらでも変わりうるあやふやなものなのです。
グレーフが晩年を迎えた1960年代は、東西冷戦はあれど世界は平和に向かって進んでいるように見える時代でもありました。第二次世界大戦後、排除と暴力に対する反省から「人権擁護」「国際協調」が謳われ。実際1990年代には冷戦も終わり世界は確実に共感の方向へ進んでいるように見えました。
ですが、グレーフはそうした状況を鋭く分析しています。
戦後、刑罰は正義や防衛ではなく犯した罪に対する補償という視点から考え直され緩和されたが、それは人類愛がもたらしたものではなく、戦争で後輩した心がやすらぎを求めた結果だと。今後態度が硬化するときはいずれ来るだろうし、そのとき世界の残酷さはこれまで以上のものになるかもしれないと。
…2025年現在、彼の危惧したことは現実になってきているような気がします。SNSでは「防衛本能に基づく正義」が「他者を罰しようとあらさがし」をし。各国は友和ではなく対立へ。さながら友和や多様性容認という熱が冷めた人々が、それまで意識してこなかった排除による安心へと価値観を転向させ、本来良いものも沢山抱えていたはずの人権尊重路線を憎み、攻撃するようになってきています。グレーフの視点は、単に犯罪の予防や不祥事防止にとどまらず、世界のために今でこそ必要とされているものなのではないでしょうか。
長くなってしまいました。最後に、グレーフの名言を紹介して解説編をしめようと思います。
「罰するのはよい。助け、救うことができたらもっとよい。だが、そのためには犯罪者の人生の中に少し介入する必要がある。そしてそれは犯罪者に対する真の共感がなければ不可能である」
…次回は、今回説明したグレーフの考えを不祥事教員にあてはめながら「真の不祥事防止」のための視線を考えていこうと思います。
では、またいずれ!!
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